訪問教育を通して感じたこと

訪問教育を通して感じたこと

私は特別支援教育の教員を28年続けてきました。
この間に多くの子どもたちと出会い、そのほとんどは学校という場において学校生活を過ごしてきましたが、7年前より訪問教育を担当することになりました。

訪問教育とは、障害の状態が重度で高度の医療的ケアが必要とし、学校に通学することが著しく困難な子どもたちに対して、教員がその家庭や施設・病院などを訪問し教育活動を行うという教育の形態を言います。
家庭に訪問する場合を在宅訪問、施設や病院を訪問する場合を施設病院訪問と呼ばれています。
私は在宅訪問を担当しており、子どもたちの生活の場に出向き教育を行っています。
ここでは、訪問教育を通して見えてきたこと、改めて考えさせられたことなどを述べてみたいと思います。

家庭で教育を行うということは、暮らしの中に入っていくということであり、まず、子どもに関係するすべてにおいて、その家庭の様式や方法を尊重する必要があります。
子どもの医療的ケアはもちろんのこと、すべての介助は保護者が中心であり、教育的にかかわらせてもらう場合は、保護者にこちらの意向を伝え、方法も含めて相談することが必要になる場面がたくさんあります。

例えば、人工呼吸器を使用している子どもたちの場合、姿勢変換や座位保持椅子や車椅子への移乗は簡単なことではありません。
呼吸器には回路という管が付いていてベットで収まるようにそのご家庭なりの工夫がされていることも多くあります。
子どもと「抱っこしながらかかわりたい」、「座位保持椅子に座らせて視線の高さを合わせたい」など、授業の中で姿勢変換をして内容を展開しようと考えることは多くありますが、実際に抱っこや移乗をする際には回路の動かし方をはじめ、その子どもの体の状態のチェックなど、保護者の指示を仰がないと危険なことはたくさんあります。

保護者が気をつけている体の触れ方・動かし方・手順などは、子どもの状態にとって大変理にかなっています。
抱っこや姿勢変換において、保護者の観点を共有させてもらうことがとても重要になります。学校において、姿勢変換したり、車椅子への移乗したりするなど、子どもの体に触れる場合は、たくさんの子どもがいるので、何をするにしてもたくさんのモデルがありますし、相談できる教員がいます。
学校には子どもを見つめる複数の目があることの安心感のもと、大胆な働きかけができる面があります。
私はそのような環境を自然のことととらえていたことに気づかされました。
そのことと同時に、今まで自分は学校において姿勢変換ひとつをとっても訪問教育の場のように、保護者との間で、また教員間において、丁寧な観点の共有ができていたかを反省させられる思いでした。

また、体調面が変動しやすい子どもも多いため、教員が「今日は座位保持に座って素材遊びをしよう」と考えていても「今日は状態が良くないのでベットでお願いします」と言われることもあり、こちらの意向とは違うことを急遽行わなければいけない場面なども多くあります。学校には時間割がありますが、例えば、緊張が強くて機嫌が悪かったり、小さなてんかん発作が頻発していたりするなど、その子どもの普通の状態と違う場合に個別の対応を行う場面はあります。
その場合は子どもを安静にして様子を見るか、それほどではないならばとりあえず同じ授業を続けながら様子を見るような対応が多いように思われます。
訪問教育では、かなり体調が悪い時は欠席になりますが、それ以外ならば、保護者が見守る中で、授業内容を変えてかかわることがしばしば起こります。
一つの内容のみで授業に臨んでしまうと、子どもの調子が悪くその活動ができなくなってしまったときに、その時間は様子の見守りだけで終わってしまいます。
学校では次の時間、午後からの時間に復調し何かに取り組める機会がありますが、訪問教育には、授業は週3回で1回の授業が2時間までという制約があるので、「今、この時間」がとても重要になります。
子どもがいつもと違う状態になることも常に想定して、その時間にできることを考え形にすることが重要で、その準備と柔軟な姿勢が問われることに気づきました。

次に、訪問教育においては、保護者が隣にいる状況で授業を行います。
いうなれば毎回の授業が授業参観の状態です。保護者はとても興味深く授業を見て、時に一緒に参加されることも多くあります。
ところが、私たちが行う内容やかかわり方が、保護者にとって時には分かりにくく見える場面もあるので、そのような場合には、今、行っていることの意味を丁寧に説明する必要があります。
例えば、学校の様々な学習場面において、子どもに何らかの働きかけをした後、子どもからの応答が表れるのをしっかりと待つ場面があります。
これは、子どもに人と応答する力やかかわる力を引き出していくために、かかわり手である教員が微細な表れを見逃さないようにあるいは邪魔しないように余計なかかわりを排除しているかかわりで、非日常的な設定の中でその力を引き出そうとしています。
しかし、訪問教育は、家庭という子どもにとって日常的な空間の中で行われるかかわりですので、教員がなぜじっと様子を見ているのか、子どもに何を求めているのかを丁寧に説明する必要があります。
また、学習内容も日常空間には見られない教材を持ち込むことも多くありますが、それらを使った活動が、非日常的で単に楽しいばかりでなく、日常の暮らしにどう繋がっていくかを説明する必要があります。
そのようなことを学校では、学期はじめに個別の指導計画や学習予定表を配布したり、途中に授業参観をはさんで学期終わりの懇談会で様子を説明したりして伝えてきました。
訪問教育を経験して、丁寧に伝え、目の前で見てもらうことを重ねていくと、学習活動としての意図をくみ取ってもらえることを実感しています。
今まで学校で学習のねらいなどの伝え方は、いかに暮らしという視点の弱い独りよがりな伝え方になっていたか、振り返り反省してばかりいます。

そして、保護者と子どものコミュニケーションについては、学ばされることがたくさんありました。
訪問教育の子どもたちは、非常に重度な障害状況で、周囲の変化を感じ取ったり、感じたことを表したりする力がとても弱い子どもたちではありますが、どのご家庭においても保護者は、とても普通に話しかけ、子どもの小さな動きや変化(例えば、眉が微細に動く、呼気が見られる、手指がかすかに動くなど)をとらえやりとりを行っています。
子どもの身の回りの介助やケアの時だけでなく、暮らしの様々な場面で自然と話しかけています。
そして子どもの小さな動きや変化を見つめ、話かけに対する応答の行動ととらえ意味づけを行い、家庭の中の一員として位置づけておられます。

訪問教育の子どもたちは、そんな家族の丁寧なかかわりや愛情を受け、優しい言葉の中で育っていることが多く、障害の状況はとても重度であっても、家族の言葉を感じ取りながら家庭の様子を子どもたちなりにとらえていることがあります。
ひとりひとりの子どもに、このことを裏付けるようなたくさんのエピソードが存在します。
それぞれのエピソードを保護者から聞かせてもらい、授業の中で実際に目の当たりにしたり、感じさせてもらえたりすると、その子どもの成長について多くの可能性を感じます。
今まで、学校の中で重度な子どもたちとかかわっていたときには、理解できなかったり、一見意味がなさそうに思えたりして、見過ごし解釈しなかった行動がありました。

しかし、それらの行動も家庭の暮らしの中で見てみると、何らかの意味のある動きになっているものも多いのではないかと改めて思いました。
現在の私はそのような家庭での親子のやりとりを見聞きさせてもらい、それらをベースにしながら、子どもとのやりとりを深めていくことを試みています。
そのことで、また新たなやりとりの展開が見えてくることもあります。
子どもが家族とともに培ってきたコミュニケーションの裾野が広がるようなかかわりを心がけていきたいと思うばかりです。

訪問教育は、ひとりひとりの子どもたちのご家庭の暮らしの中に入るということでもありますので、学校での教育活動に比べて制約が多いことばかりが注目されがちですが、暮らしの中の子どもたちから教育を考えることができ、保護者と共に子どもに必要なことを考えていくことができます。
学校という枠組みの中だけでは見えてこないこともたくさんあるように思います。
学校の教員はなかなか設定されている家庭訪問期間以外に家庭を訪問する機会はないかもしれませんが、可能ならば家庭を訪問し暮らしにかかわる様々な様子、エピソードを見聞きせてもらうことは、子どもの教育活動を考えていく上でとても重要なことと思います。

(まほろばサークル運営メンバー)

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